麓城 跡 | 城主不明・黒川氏家臣 : 入生田氏 の 居城
別名 | 麓館、吉田城 |
築城・廃城年代 | 不明〜1590年? |
主な城主 |
不明、入生田右京之允( 主君 : 黒川氏らしい ) |
近隣河川 | 吉田川( 鳴瀬川水系 ) |
最寄街道 |
根白石・朴沢 ~ 宮床 〜 難波 〜 吉田 〜 吉岡 |
立地 |
集落の奥、街道の分岐点とも |
構成 | 一の丸、二の丸、空堀 |
主な遺構 | 不明 |
井戸跡 | なし |
古代からの歴史ある 石神山精神社 の社の上に立地
あまりにも、石神山精神社 が有名なので、その上にあったという この城は注目の外という傾向が強い。 石神山精神社 は 奈良時代 もしくはそれ以前からある、宮城県で 一番古い神社 であるらしい。 境内にあるその巨石が真の御神体、参道は社殿でなく 磐座( いわくら・巨石 )を向いている。 昔人にとって巨石は、発祥が不思議で神秘的、頑丈ゆえに難攻不落・永遠をイメージさせる神聖なものだったに違いない。
![石神山精神社の磐座と坂上田村麻呂手植えの杉・宮城県黒川郡大和町吉田](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/x/xxxseesawxxx/20240606/20240606192337.png)
坂上田村麻呂と桓武天皇の影響と観応の擾乱東北版
坂上田村麻呂 も 桓武天皇 の命に従って泣く泣くはるばる来た 東征( 792〜804年 )の際に、ここを参拝し、今も境内に残る 杉を手植え したそうだ。 この神社の北西・ 悪田 と呼ばれる地域の手前には、「 玉ケ池 」があって、こちらも坂上田村麻呂に纏わる伝説が残っている。 近くに住む娘が毎朝玉ケ池で顔を洗っているのを田村麻呂が見かけ、その美しさに心奪われてしまい妻として娶ったと言うものだ。
玉ケ池は、広場の向こうの林の中。
そんな由緒ある地域の 社の上 に 城を構えるだなんて、どんな殿様だろう。 東北大学の文学部が所蔵する第一級の歴史資料「 鬼柳文書*1 」に " 吉田城 " としてその名が初出する。
以下、訳。
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和賀 常陸権守 義綱(?)軍の 忠事
右( 上記 )の者は今年文和二年(1353年)正月十日、宮城郡 小曾沼城 対治のため、発向の間( 出発して目的地に向かい )、同十三日に馳参( 到着 )した。惣領薩摩守?の手( 支配下 )に属して、同十八日に 一名坂城 を追落とし事を終えた。同十九日には 山村城 へ発向の間( 出発、)( 一緒に )向かうところである。 南部伊予の守・浅利尾張の守以下の凶徒等は、降参させられ候。( この者らは我らに従い )同廿日まで( 貴殿ら )黒川郡 吉田城( へ、攻めに )共に参るところだ。 ( そこに隠れ籠っている )中院大納言以下の凶徒等は没落させられて終わるだろう。 然れば( 分かったのなら )早く御証判を下し給わる( 行動する決断をする )ように。末代の亀鏡に備えるため( 模範となるよう )恐れながらお話申し上げる、この件宜しく。
文和二年正月 日
花押( 吉良貞家のものか?)
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初陥落は、観応の擾乱・東北版
上記資料は、戦への寝返りを要請する 証判状( 一見状 )の文面である。 訳者は 吉良貞家 の依頼を 和賀義綱 に託し、これを 吉田城 へ届けさせたと解する。
書状の主・吉良貞家 は 南朝方の先鋒。 この 吉良貞家が 畠山国氏父子 を 岩切城 に追い詰めたのは 1351年(観応元)、小曽沼城 と 一名坂城、地元の南朝方の本拠地である 山邑城( 山村城 ) の壊滅 が 文和2年の1月13〜19日の間であるとこの書状は明らかにしている。吉田城 の皆々も何らかの理由で敵視されており、「 攻撃されたくなければ、我ら南朝方にに味方し後の戦に参戦しろ 」ということなので、1352年(観応2)4月の 多賀城 奪還までの戦闘から、1353年(文和2)宇津峰城 を陥落させて東北の南朝方勢力を駆逐した戦闘までの何れか若しくは全てを意味していることになる。
総合的に解釈するとここ 吉田城 は 同 1353年(文和2)正月20日に陥落している。
余談だがこれからわずか1年足らずの 1354年(文和3・正平9)には、吉良兄弟*2の消息が断たれる。どんな書類にも名前を見つけることが出来ないそうだ。
ところで、麓城( 吉田城 )について調べると年代やキーワードに混乱も見える。
古代より、麓集落を警護?
1200年より以前からこの城は、城として機能していたと見ていいだろう。 代々の 通字 は " 右 " 、山頂の面積から言っても然程大規模な城で無い事は確かなようだが。 旧吉田村( 黒川郡大和町吉田 )から 旧難波村( 黒川郡大和町吉田字難波 )へ抜ける街道の要衝を押さえる*4と同時に、この城の東側にある行き止まり集落の 麓地区 を警護しているようにも見える。 何か特別な人々が居住している集落か?*5
麓城を入口に、集落は行き止まりになってる。吉田川をうまく使っている感じ。吉岡側からは入って来れない郷。( さすがに橋の技術が進んだ時代にはわずかに1カ所だけ開通しただろうが、それ以前は 麓城 を介さないと、という立地かと。 )
大和朝廷の血統説
現地に行くとある特異な氏名の方々が密集して住んでいるようにも見えなくない。食肉卸大手スターゼン創業家はここの出身? 先祖は平家の落人? 秋保( 仙台市内太白区秋保町 )と違ってそんな話は聞いた事がないし、石神山精神社 の歴史から考えても、奈良時代以前から集落として成立していた と考えられる。 じゃ遡って、蘇我氏 年代( 古墳時代〜飛鳥時代初期 )に同じく隆盛を誇った 大伴氏 の末裔とか? 北東側の 旧吉岡村 には、大友姓 が多く、旧宮床村 には、浅野姓 が多いらしい...。 いろいろ調べていたら、ここにこんな考察があったので参照したい。
……信楽寺の開山は慈覚大師、寺の創建は淳和天皇、再建は恒貞親王と論説しています。そしてその論説を展開して宮床、難波とこのあたりの地名に触れ、淳和天皇の「この地への下行は疑わし中でも上皇様なら或いはあり得た」、更に一歩進めて、僧籍にあった宮様(恒貞親王)の「御下向という事も極自然なものに思われてくる」とし、宮様(恒貞親王)永住説の布石としています。
黒崎氏は淳和天皇の勅願寺であるこの寺の発願の趣旨として当時の中央政府による蝦夷平定に関連づけて、奥賊の乱後の新領土における「士民の抜苦与薬を発願遊ばして寺院の建立を思召したたれた」ということも「ありえる」としながら、この地に何故この寺ができたのかということについては多くを述べていません。
只野信夫氏の「新・みちのく古代史紀行 七つ森は語る」では、淳和天皇( 大伴親王 )と黒川郡の大伴氏に「なみなみならぬ血筋を感じさせる」として、これ以外にも古代民族「オオ氏」の存在と大伴氏の関係についても論説しながら「 黒川郡は、エゾの地でなくて、むしろ 大和朝廷の血筋の地脈と考えて間違いないように思われる 」と非常に大胆な論説を展開しています。
※ 大伴氏と大友氏 - はてノ鹽竈
大和町吉田 難波地区 の謎
ほんの少し脱線するが、 先述の 難波 地区だが、本当に不思議な集落なのだ。 山形側に渡る事も出来ないし、山伏が修行するような 霊場がある訳でも無い、何でこんな所に人が住んでいるのがと驚くような地域なのだ。
村の一部と、景勝地であった 鳳鳴四十八滝 *6 は現在、南川ダム の底に沈んでいるが一方、高地である西側の集落だけは残っている。
耕作地が少なく水も冷たく稲作には全く向かない、畑作だって難しそうだ。村人はどうやって生計を立てられたのだろう?
渡来人伝授の技術者 ; 産鉄族 の村説
どこかのブログにあったのだが、ここら辺には、渡来人が伝授した 鉄を作る民 ( 産鉄族 ) が居着いたという説 があるそうだ。 四十八滝 の冷たい水で鉄を冷やす必要があったらしい。 この話を地元民に問いかけると、上記( 麓地区 )とはまた別の、独特の苗字の末裔の方が記念にと、その苗字の刀鍛冶の銘のある、刀や包丁などを記念にと譲り受ける( 先祖鋳造の刃物収集保存 )活動を行った話を聞くことができた。とても興味深い。*7
つまりこの地域は、奈良時代以前 から、歴史の大変動が起きたことがきっかけで、都からの移民が行き交っていた可能性がある。 そりゃそうだ。 こんな大昔は川の下流側に橋などなく、大河は渡れない。 こういうところの山深い上流域で小川となって部分で渡る大街道が通っていたにちがいない。 それが、この辺だったのであろうことは周囲にある 城 や 街道筋跡の並木跡など により、容易に想像できる。田村麻呂だってここへ来ていることはほほ間違いないんだし。
さて、閑話休題、脱線からまた少し戻ろう。
淳和天皇とのゆかり
難波 地区から 旧吉田村 側に降りるには 南川 伝いに下れば直ぐだが、仙台市寄りの 旧宮床村( 黒川郡大和町宮床 )へ降りるには現代ですら魑魅魍魎の出そうな長い山道を時間を掛けて下らなくてはならない。2015年9月11日の 関東東北豪雨 では土砂崩れがあって通行止めにもなったという不安定な道である。
東日本一の伽藍か・信楽寺( しんぎょうじ )
但しこの宮床村への降り口には、平安時代(823〜858年)の 天皇で、宮床村で 隠居生活 を送った との伝説もある 淳和天皇( 754〜840年 )が勅願して創建され、淳和天皇の 墓 も残るとされる 信楽寺廃寺跡( しんぎょうじはいじあと )がある。 こんな ど田舎 に 天皇ゆかりの寺?! 実に不思議で何かの因縁に満ちている。*8
淳和つながりの因縁
さらに前段の『 鬼柳文書 』を再度良く見ると、 吉田城 には、中院大納言 が匿われていたと読み取る事が出来る。大納言というのだから南朝方のお偉いさんと一見されるが違うらしい。北朝方の要職者で 1339年 に 24歳で 淳和院別当 の役職に就きその後何らかの理由で南朝方に汲みする事になった 中院通冬( なかのいんみちふゆ、1315〜1363 )であるらしいのだ。 観応の擾乱東北版 の中心地・宮城郡とは関わりの薄い、黒川郡( 黒川氏 は北朝方の頂点・足利氏の血統 )の、吉田城 に戦火が飛んで来た原因は 淳和院繋がり の 彼にあるのでは無いだろうか。*9 *10
先の書状を持参した 和賀氏 は、関東から北上市辺りに来て、伊達・最上・南部の勢力拡大について行けず、しかし南部麾下に入る事も出来ず没落してしまった一族だが、麓城 の 城主は何か大切なモノを守りながらその時々の時代に柔軟に対応出来ていたことは伺える。謎はたくさん残るが、糸口はずっと探し続けたいと思わせてくれる、そんな地域の城跡である。*11
1590年、奥州仕置で廃城になっているようなので、観応の擾乱 での陥落以後は、黒川氏 の庇護下に置かれ、ゆったり過ごしたものだろう。
登場文献 |
「 鬼柳文書 」
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解説設備 | 古いものが若干 |
整備状況 |
公園化されているものの放置傾向 |
発掘調査 |
不明 |
本記事の移転更新 #城館跡
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*1:鬼柳氏 は、岩手県北上市あたりにに本拠を置いた 和賀氏 の 庶氏 で、本文書は鬼柳氏に伝わる鎌倉 〜 室町時代の80通程の古文書集。現在は東北大学にて所蔵。
*2:吉良貞家の弟・貞経 は、吉良系では唯一尊氏派だった。
*3:おそらく 葛西大崎一揆 を指すのだと思う、天正18年・1590年。
*4:南の宮床方面から来る魑魅魍魎を抑える意味合い。
*5:鶉橋さん。
*6:鳳鳴四十八滝は、運動公園名 とて遺されている。先日、オートキャンプ場としてリニューアルしたかもしれない、2024年。
*7:駒板さん。
*8:信楽寺廃寺跡
山形市の 山寺開山と同一人物。慈覚大師( 円仁・786 ~ 840 )が開山、淳和天皇( 794 ~ 864 )により創建と伝わる「 東北第一の寺 」とも言われた。
坂上田村麻呂 に 東北を " 荒らさせた " 罪滅ぼしにと、自ら田村麻呂を派遣した 淳和天皇 の父・桓武天皇 の配慮が働いてつくられたとなぜか記憶している。
天皇がお住まいになった土地だから「 宮床 」。信楽寺 の 天皇の 墓 とされているところには、髪の毛と古銭が埋蔵されていたらしい。( 分骨されていたが消失 ) 廃藩置県・廃仏毀釈 という時代の流れも相まって、大火災を機に廃寺となった。( 放火という話もどこかでみたような...。 )周囲の山裾と峰々に配された大伽藍と庭園は、幻のように消えて無くなった。
*9:田舎者の温情が逆効果を現した よくあるいい例でしょ。
*10:結局 通冬 は、吉田城を脱出出来たようだが、北朝政府に戻っても 中院家 の不遇の時代は長く続き、文書が予言した通り没落していったらしい。
*11:麓城至近の寺・臨済宗 清浄山 禅興寺
1670年(寛文10)、松島・瑞巌寺の和尚へと上り詰めたここ吉田出身の102世大領義猷( だいりょうぎゆう )により再建された。大領和尚は伊達家4代藩主・綱村公に教えを請われた名僧。山門および観音堂は1688年(元禄元)に建立された貴重な遺構であるらしい。
清浄山 禅興寺は近年、県内 樹木葬 のさきがけバス広告等で知名度を上げている。
七ツ森からの帰りに立ち寄った古刹『臨済宗禅興寺』、『石神山精神社』、『麓城跡』 by 旅する心-やまぼうし