跡を辿って。

xxx_sepia_color_xxx

大衡城 跡

2015.12.15 投稿 | *

大衡城

大衡城 跡 | 大衡氏( 黒川氏庶流 )の居城

宮城県黒川郡大衡村大衡字塩浪4-2 ( 村史跡 )( 地図




別名 塩浪館、越路館
築城・廃城年代 1544~1590年( 天文13〜天正18 )
主な城主


大衡宗氏、大衡氏胤 ( 2代のみ )


近隣河川 埋川・善川 ( 合流点、鳴瀬川水系
最寄街道


奥州街道・出羽街道( 羽後街道 ) の分岐点


構成 本丸、二の丸、三の丸
主な遺構 大手門( 虎口 )、物見台、主郭、腰郭、帯郭
井戸跡 不明




本丸跡 は最も標高の高い部分。二の丸跡 は谷を挟んで北側( 現住宅地 )、三の丸 は東側( 現住宅地 )のようだ、結構広い。『 仙台領古城書上 』によれば、" 本丸東西38間( 約68m )、郭 長さ102間( 約184m )、二の郭長さ65間( 約117m )横15間、本丸北方 隠居館 東西25間南北12間 " 、 なるほど何と無く分かる。 いろんなことが想像し易い城だ。 ところで 隠居館 の場所は 二の丸 だったらしい、2代目になって当初と別の使われ方になったのだろう、冒頭の余談で申し訳ないが、二の丸を囲む林の中にはポツポツと お茶の木自生 している。 当時栽培していたものの名残か。




おそらく築城以前とは街道筋が変わりはじめていたのだろう、黒川氏 が 御所館 から 鶴巣城 へ移転した 6代 : 景氏 の次男、治部大輔 宗氏 が、" 地名 " の 大衡氏 を名乗り分家、1544年(天文13)ここに築城した。 しかし計らずも46年後には 奥州仕置(1590)が待っていた。 たった 2代 しか使われない城だったのだが。




は、奥州藤原氏の通字なのだが

しかしなんで 大衡氏 と名乗ったのだろう? " " の字は、当時で言う 奥州藤原氏 の 4代 に 共通する 通字 だ。 地名だったらしいが、どんな由来があったのだろう。 大衡とは、古くはもしかして、奥州藤原氏 と関係する 地なのかもしれないな。 *1




大衡城の大手門

新緑の大手門。




大衡城の登城路

左の小高い小さな丘が 物見櫓 跡だろう、ケヤキが目印の右上の丘は 本丸 東端。




葛西大崎一揆時の壮大な伝説

この城にまつわる有名な伝説と言えば、 葛西・大崎一揆 の際に、籠城した者たちが難攻不落の滝上の城に見せかけるため、崖から米を流し落とした というもの。その滝に雀が群がったことから滝でないことが分かり攻め入られて落城したと伝わる。 しかし伝説はあくまで伝説、籠城者達が兵糧を放出するワケがない。




「 あすこは豊かな村やよって城から米でも流したら滝にでも見えて攻められんかったんちゃうん? 」

「 いやいや、さすがに雀やらが群がってバレるやろ、ははははは。」




みたいな冗談が伝説にでもなったのではないだろうか。 川の合流地点、周囲には縄文からの遺跡が其処彼処にある豊穣の地だ、無理もない。




落武者の霊についての伝承が残る

大衡村立 大衡小学校 が 城跡 の北東にある 谷筋 を埋め立てたところにあるのだが、*2 竣工当初には体育館のトイレに 落武者の霊( 首無し )が出るとか、校庭の写真を撮ると死んだ武者の霊がブワーッとたくさん写ると言われていたそうだ。そういう伝承を聞くと、城は 南でなく北の鬱蒼とした山側から攻められ落とされたのかも知れない。( 現在のときわ台南北側一帯 )




水が豊富な城、さぞ豊かだったろう

さて、本丸の北西には昔ザバザバと豊富な湧水が流れていた。現在も湧水は出ているが回収調整設備が設置されており、その勢いを見ることは出来ない。 しかし城の西麓の民家の裏庭に大きなケヤキの木があり、その下に 古井戸 が残っている。水の豊かさをひっそりと証明しているなと感じた。また、二の丸跡北西の 大衡八幡神社 には「 目の水 」と呼ばれる湧水の手水がある。*3 水にも恵まれた地域に築城したこと、感慨深い。*4




大衡城北側

城北側。 桜の木の下辺りが、湧き水回収施設らしいが。




大衡城の大手門・虎口の春

春の大手門。




南、大手門周辺 は、今でこそ住宅地だが往時は 埋川 に合流する小川を伴った湿地帯であっただろう、こちらはなかなか攻め入りにくそうだ。 少し前まで大手門( 虎口 )跡前には、小さな 太鼓橋 が 掛けられていた。昭和中期の公園整備時のものらしいが、その橋は今は、大衡村大瓜 にある 最近人気のアウトドアスポット「 牛野ダムキャンプ場 」に、移設されたのだとか。*5 登城路以外の東壁は階段状に 腰郭?と 帯郭?が交互に設けられた感じになっており興味深い。*6




大衡城

本丸北東部を下から。竹藪の右手が本丸。




ところで先にも触れたが、城跡北西には 大衡八幡神社 が鎮座、南東の奥州街道の古道跡に面して 曹洞宗 昌源寺 がある。余談だがこの二つの寺社、古く( 中世~それ以前? )は 別の場所にあったらしい。八幡神社 が 現在の昌源寺の場所に、昌源寺が旧大衡村・旧奥田村( 大衡村大衡字奥田 )・旧駒場村( 大衡村駒場 )の 3つの村境の 置かれていたそうだ。 当時のこの二つの寺社間には罪人が処刑された「 首洗池 」 ・「 お仕置き場 」があったとも聞く。 一里塚 もあったのだが、トヨタ自動車東日本株式会社 の用地開発に伴って消滅した。*7




大衡城

右奥が虎口。




大衡城


東斜面。秋には数本の大銀杏が美しく紅葉する。




城跡は現在、大衡城址公園 であり春には 桜、秋には 銀杏 の名所となっている。昭和中期にドライブインとして建てられた城郭風の建物は現在、「 大衡村青少年交流館 」として、子供達の宿泊研修が出来る場であり尚且つ 民俗資料館 となっている。




大衡城の解説看板




桜の大衡城、春は美しい

花曇りだったな。




大衡城の春は桜に満たされる

桜で満たされる、素晴らしい城跡。





大衡古城 跡 | 城主不明の居城

おそらく、奥州藤原時代に使われた " 大衡古城 " 長命館 同様、城主不明な古城である。八谷古館も同様。








解説設備 情報標識有り( 城跡南東大手門前 )
整備状況


公園化、公共施設( 桜と銀杏の名所 )


発掘調査 不明













お題「最近楽しみな事」

お題「面倒だけど、やってみると意外と楽しいこと」

お題「今、チャレンジしていること。」

本記事の移転更新 #城館跡




+++

*1:" " の字の件、追っかけていろいろ調べてみたいものだが、いやあ、どこにも文献ないだろうなぁ。

*2:埋め立てたのは、小学校校庭部分。小学校の学習田らしき水たまりから、旧大衡幼稚園・大衡児童館、大衡小学校西隣の施設ががくんと一段低くなり、(株)トップロード・衡中東集会所方面に下っているので、谷・水の流れの行方が良く分かる。

*3:二の丸から神社、奥州街道国道4号 )までの獣道が、いまでも残っているらしい。北と南から攻められているらしいことを考えると、家中の者を逃がすリスク管理として設けられていたのかもしれないな。

*4:
大衡城周辺図

右側の区画は、2027年に稼働を目指す、SBI と PSMC( 台湾 )の合弁、半導体企業が進出予定。大衡村には、トヨタはあるし、日本最大規模の半導体工場が立地することになる。あ、新しい女性の村長の表明に、泉中央からモノレールを引きたい構想もあるとあった。すごいな。



*5:太鼓橋の話、申し訳ないが伝聞だけの未確認情報。

*6:東側斜面は、段々になっているし、ぬかるみ系らしいので、馬では絶対登れないし、人でも甲冑姿ではもたつく間に上から狙われたろうと推察できる。

*7:首洗池・お仕置き場・一里塚は、上記地図の右手側。