下草古城 跡 | 黒川氏・伊達氏庶流 の 居城
別名他 | 下草城 |
築城・廃城年代 | 平安時代 ~ 1616年( 江戸初期 ) |
主な城主 |
黒川氏?、伊達宗清( 伊達政宗三男、1611 ~ 1616年 ) |
知行等 |
38,000石( 伊達宗清時 ) |
近隣河川 | 竹林川( 鳴瀬川水系 ) |
最寄街道 |
奥大道( 多賀城~岩切~鶴巣~吉岡~蒜袋 )・奥州街道 |
構成 | 本丸、二の丸、城下町( 鍛冶屋も有 ) |
主な遺構 | 堀跡、水田跡、掘立柱建物跡、鍛冶遺構 |
井戸跡 | 37基( うち1基は井戸枠も有 ) |
Google Earth でも、Google Map でも、杜の都ゴルフクラブ( 宮城県黒川郡大和町鶴巣北目大崎具足沢64-5 )の北側の、広大な田圃の中に存在する 堀跡 を確認することが出来る同城跡。発掘調査の結果、堀の内側の南に 格式高い本丸 の建築物があり、そこから南の堀に橋を架けた通路があって、その先一帯に 城下町 があったことが分かっている。 つまり、竹林川南岸から現在の下草十文字集落までの田圃一帯が城と城下町の跡である。
本丸跡の使用年代変遷は定かではないが、城下町自体は 平安時代 から存在していたことが確認出来ている。故にもしかすると本丸跡にも平安時代からの城的な建築物があったかも知れない。*2 その頃は誰の、どんな城だったのだろう。
一方この城下町は、" 郡都 " と言われるほど華やかな街だったとも言われる。 当時の政治状況を考えると、多賀城 と 吉岡官衙*3 とのやり取りがあるのは必至だろうから、多賀城 ~ 利府 ~ 鶴巣 ~ 下草 ~ 舞野 ~ 吉岡 と言うルートが使われていたことが考えられる。 江戸時代の 奥州街道 は、宿場町 を繋いで発達したのだから、それよりも古い街道にこのルートがメインであったと推察して不思議はない。 当時の役人や旅人にとっでみたら、山道を抜けて初めて開けた場所に存在した煌びやかで特別な場所に見えたかも知れない。
水害に悩まされた下草城
同じく鳴瀬川水系 吉田川 及びその支流の 善川 とは違って、現代では氾濫など全くそんなそぶりが見られない 竹林川 だが、同城は良く水害に見舞われたと郷土史などに記載がある、本当だろうか。
2015年9月11日、平成27年関東・東北豪雨 の際には、未明に本遺跡の上流域で、宮城県最初の河川 越流・国道4号線の 冠水( 一時寸断 )が報道された。*4 また、2019年の 令和元年台風19号 時の豪雨でも、竹林川主流・支流および用水路ともに、前回以上の氾濫がみられた。*5 水害に遭っても幾度も復興してきた城というのは、本当だった。
伊達政宗が蒲生氏郷をもてなした迎賓館
葛西大崎一揆 の際には、伊達政宗 と 蒲生氏郷 との 会談 がここで行われたと言うから、迎賓館 的な使い方がされていたと思われる。*6 ⇦ これ重要
・ 葛西大崎一揆の際、黒川氏より伊達政宗に差し出された下草古城
中央に見える建物は、宮城県大和町浄化センター。下草古城にちなんで、ほんのり城風デザインの建物になっている。 *7
最後の城主・伊達宗清 が 吉岡城 に移転して以降廃城になり、同時に城下町も消えたのか、すぐ消されてしまうもの? どんな衰退を辿ったのか。 田圃に溶け込んだ今、上記発掘図案を見て変遷を想像し、思いは様々な時代を駆け巡る。
この近く、国道4号線沿いの宮城交通バス停も今は「 下草入口 」となっている。下草集落の人々の足を守るバス停名として命名されただけではない、この土地に残る遠い記憶がそうさせている気がしてならない。
解説設備 | なし |
整備状況 |
田圃の中に堀跡の池が残されている( 護岸工事済 ) |
発掘調査 | 1995・1999年、宮城県教育委員会 |
本記事の移転更新 #城館跡
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*1:下草十文字地区は含まず。
*2:
*3: 吉岡東官衙遺跡 、奈良 ~ 平安時代初期の役所跡、県指定史跡。
宮城県黒川郡大和町吉岡東2丁目9、上記に取材記事有。
*6: 葛西大崎一揆 では、 氏郷 と 政宗 が、葛西・大崎旧領13郡に新たに封じられた木村氏を救出するよう命ぜられ、1590年(天正18)10月26日、ここで会談している。
また、葛西大崎一揆鎮圧の任に当たっていた両者だが、政宗には黒幕説もあり、氏郷を 茶会 に招いて 毒殺 しようとしたとの噂も色濃く残る。( 氏郷 1590年10月17日・黒川郡大和町舞野着、18日・下草古城で朝茶会 ) その舞台がまさにここなのである。
*7:・ 宮城県大和町浄化センター
2015年9月11日の平成27年関東・東北豪雨は、9月12日に開催予定の大和浄化センター周知事業も軽く吹き飛ばした。施設の特性上、復旧まで時間を要する大変な被害だったと思う。