跡を辿って。

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八谷館 跡

2017.01.15 投稿 | *

八谷館跡

八谷館 跡 | 黒川氏家臣 : 八谷氏 の 居館

宮城県黒川郡大和町落合蒜袋字新田・落合相川蜂谷( 地図




築城・廃城年代 1540年代~1590年
主な城主


八谷氏( 黒川氏 の 家臣 )


近隣河川 善川・竹林川・吉田川合流点( 鳴瀬川水系 吉田川支流 )
最寄街道


奥大道( 多賀城 〜 岩切 〜 利府 〜 鶴巣 〜 吉岡 )、
吉岡 ~ 松島、吉岡 ~ 駒場 ~ 伊賀 ~ 桑折


構成 4つの建物を数度建て替え
主な遺構 掘立柱建物跡、門跡、溝・土塁・空堀、土壙・他
井戸跡 不明




写真中央から右に突き出ている丘が、八谷館 跡 である。( 左は谷部を挟んで 御所館 である。) 撮影した方角は城跡の北西から。善川に架かった農免道路の橋が丁度丘の裾にかかって城跡を隠そうとしてるかのよう。丘の向こうはすぐ高速道路の高架橋をくぐるようになっており、高速道路に隣接した公園として整備されている。春になると一度は大和I.C.から降りて花見をしようと思わせてくれる場所だ。




八谷館跡




春は丘南部のすべてが、桜で満たされる。 高速道路をこの季節に走った方はそれが目の端に止まり、美しさに一瞬心を奪われそうになって戒めたことがあるのではないだろうか。




八谷館跡




桜の季節が美しい八谷館跡




八谷館跡の公園案内看板




平場には遊具が置かれている場所もあり、親が花見をしつつまたは木陰で休み子どもが遊具で遊ぶという姿もちらほら。 静と動の家族連れを満足させる公園は、古くは古代から人々に愛されてきた




八谷館跡




古墳 ~ 平安時代 に作られたとみられる " 墓壙 " が 発掘調査にて幾つか発見されており、その副葬品としていずれも碧玉製の管玉( ガラス製の完形品・紺青色 )が9点出土している( 長さ1.6~3cm、直径5~9㎜ )。 墓壙の特徴でもあるが、この埋葬施設はその痕跡がみられないことから他の多くと同じように木棺のようなものと考えられ、形態としては土壙底面の埋葬施設を置いた部分の断面が舟形状をしていることから割竹型木棺の可能性も考えらるそうである。また、土師器・須恵器・赤焼土器なども出土しているので、なにか祭事に使われていた場所だったのだろうか。




八谷館跡




黒川郡大和町の蒜袋地区、仙台平野および松島、利府方面から大崎耕土に通じる交通上の重要な位置を占める立地。前面の平野部を流れる吉田川や善川の自然地形、大小の谷や沢が複雑に入りこんだ小丘陵の尾根上にを考慮に入れた山城的な性格を持った場所だ。 




■ 構築について ( 発掘調査結果による )

館跡は背後に丘陵をひかえ、前面に沖積地や善川のみえる南北に長い丘陵先端に立地する。館の構築をみると、丘陵の東西にある沢地に積み土による整地を行なって上段と下段の平場を造成し、その平担部の縁辺に土塁をめぐらしている。同時に北側下段平場の斜面に空堀を掘り、その掘り上げた土を利用して堀の外側に土塁を構築している。さらに上・下段平場の東西斜面には積み土整地による1~2段の腰郭を配している。これらの遺構を調査した結果、通路と土塁の間で部分的な改築が認められるだけで、館の拡張などの著しい変化は認められなかった。このことから、内部遺構の配置の変化以外は館の形態にあまり手を加えないで、ほぼ初期の範囲を利用していたと思われる。




発見された遺構は、掘立柱建物跡、土壙・門跡・溝・土塁・空堀など、15世紀頃に築造し16世紀初頭まで使用されたと考えられるとのことだ。




調査区域の北半にある平担面で多数の柱穴が検出された。建物が数回、同じ場所に立てかえられたため、重複個所が多い。どの建物に付属するかわからない柱穴もあるが、全体で20棟前後の建物を推定している。また、平担面と斜面の境に通路および門と推定される柱穴が発見された。通路は斜面を凹形にほり下げ傾斜をゆるめている。門は改築が認められる。北側および西側の丘陵の周縁と斜面に空堀と土塁が断続的にめぐっている。空堀は浅いが、斜面を急にして山城としての性格を強めている。土塁は高い部分で1mと小規模である。

また直径1m、深さ60cmの貯蔵穴(?)の中から炭化米が出土した。出土遺物は、元・明代の青磁白磁を含む国内産の陶器・古銭・鉄釘・鉄刀・石ウス・硯などである。

出土品からみると15世紀以降のものが多い。遺構についても重複および改築がみられるので、 100年の存続 が考えられる。大ざっぱにいって、室町時代後半といってよいであろう。

丘陵の北端の近い所で、古墳の主体部が検出され、内部から直刀・鉄鏃・装身具( 管玉・ガラス玉・コハク玉など約20点 )が出土した。しかし、墳丘および周溝は確認できなかった。




八谷館跡




館主について、『 仙台領古城書上 』( 延宝年間 )、『 仙台領古城書立之覚 』などによると、黒川氏一族の『 八谷冠者……( 八谷越前守 ) 』となってはいるが、それ以上も以下も記録は一切ない。 一族とはいうものの家中の者との意味であり、当然のことながら家臣のひとりを指していよう。 御所館 の 前面、当時の交通の要衝( 多賀城 ~ 岩切 ~ 利府 ~ 吉岡 ~ 駒場 ~ 三本木 ~ 大崎、奥州街道が整備される以前の道路 )を守る機能を持たされていたと感じる。




また、この土地( 蒜袋に南接する相川 ~ 落合地区 )には、相川氏 が居住していたと『 黒川氏大衡家族譜 』( 岩手県水沢市の大衡家に伝わる江時代初 ~ 中期かけての口伝 )より伝えられており、相川 ~ 落合地区の中心に 熊野神社 があることも示す通り、相川氏がここの土着で黒川氏に従った様子が想像できるような佇まいを持っている。




登場文献


『 仙台領古城書上 』、『 仙台領古城書立之覚 』、『 黒川氏大衡家族譜 』、
『 八幡氏系図 』、『 伊達正統世次考 』、『 余目記録 』


解説設備 看板
整備状況


公園化、桜の名所


発掘調査 昭和47年11月1日 ~ 昭和48年6月3日( 1972 ~ 1973 ) 、
宮城県教育委員会日本道路公団、15,000 ㎡
調査結果書 昭和58年3月( 1983年 )





八谷古館 跡 | 城主不明

宮城県黒川郡大和町落合相川上袋・大沢( 地図







築城・廃城年代 不明( 鎌倉時代か )
主な城主


不明、地元豪族( 相川氏?? )か


近隣河川 善川・竹林川・吉田川合流点( 鳴瀬川水系 吉田川支流 )
最寄街道


奥大道( 多賀城 〜 岩切 〜 利府 〜 鶴巣 〜 吉岡 )、
吉岡 ~ 松島、吉岡 ~ 駒場 ~ 伊賀 ~ 桑折


構成 不明
主な遺構 不明
井戸跡 不明




八谷館 跡 の南、高速道路を潜ってすぐ左側の藪の中がそれと思われる。 ( 前述上記のように )八谷館 に古代から使用されてる形跡があると同様に、ここもそうだと考えられる。 善川水系のほとりには大衡村の平林地区( 埋川 )にまで縄文遺跡が幾つか出てくる。中流域で他二つの川の合流点がすぐそこにあるこの立地に、地元の豪族が居を構えないわけがない。さらに、山の裏が 御所館 までにかけて大きな沼が数個存在しており、つまり、この辺が 井戸( 飲み水の補給 )に困らない水源に恵まれた丘であったことは確かで、築城に最適な土地と理解できる。 また、( 前述上記のように )八谷館 から古い墓壙が見つかってることから、太古の昔から祭礼などにも使われていたものかもしれない。他方、南向かい側の山中には、鳥屋八幡古墳 1号・2号 ( 6世紀/古墳時代後期 )がある。予想に難くないだろう。







黒川氏 は、1530年代前にこの地へやってきて 御所館 を構えた。 『 黒川氏大衡家族譜 』や『 八幡氏系図( 平姓八幡氏系図?? )』には、1440年( 1540?? )に 黒川氏房( 黒川氏4代 )が、宮城郡高崎 の 高崎盛忠 とともにここ、相川地区で対戦したことが記されているそうだが、口伝が基になっているが故に年号に誤差がみられるのだろう。いずれにしろ 八谷古舘 は 黒川 氏以前の者の館であったことには、相違なさそうである。




登場文献


「 黒川氏大衡家族譜 」、
八幡氏系図( 平姓八幡氏系図?? )」


解説設備 なし
整備状況


山林


発掘調査 なし










お題「最近楽しみな事」

お題「面倒だけど、やってみると意外と楽しいこと」

お題「今、チャレンジしていること。」

本記事の移転更新 #城館跡




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