跡を辿って。

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鶴巣城 跡

2021.05.05 投稿 | *

鶴巣城・宮城・大和

鶴巣城 跡 | 黒川氏 の 居城

宮城県黒川郡大和町鶴巣字下草迫( 地図




別名他 鶴楯城・鶴巣館
築城・廃城年代 1530年代 ~ 1590年( 奥州仕置
主な城主 黒川氏 6代・黒川景氏 〜 黒川晴氏( 月舟斎、9代 )
知行等


不明


近隣河川 竹林川( 鳴瀬川水系
最寄街道


奥大道( 多賀城〜岩切〜利府〜鶴巣〜吉岡 )・奥州街道
西に分岐 / 根白石、難波・宮床・吉田方面


構成 不明
主な遺構 主格、他
井戸跡 不明




初代より慣れ親しんだ 御所館 より、ここへ発展的移転をしてきたのは、黒川氏6代・景氏 のときだ。 おそらく、主要街道が時代によって変わってきたためである、と確信的に思っている。





このあたりの街道は、多賀城開府を中心に四方八方へ拡がっていたうちのひとつであるが、時代・政府が変わると機能しなくなった役所をすっとばして、道は豊かな街々を結ぶようになったと思われる。




人の流れが変わった

坂上田村麻呂 時代 は、塩竈利府富谷*1大和町 宮床大和町 吉田大衡村 大瓜大衡村 柧木( はぬき )~ 大衡村 楳田 ( うるしだ )~ 大衡村 駒場大崎市三本木町 伊賀三本木大崎市 古川 という、橋( 川越え )の出来や状態がわかりやすい道筋だった。 それが次第に平安の時代になると、多賀城吉岡官衙 まで、ほぼまっすぐに整備された。そりゃ、物流しやすもんね。 御所館 時代はそれメインで良かったが、時代を経るごとに多賀城は経由せずともよくなり、より平野部の村を結ぶようになっていくのは必然であったろう。根白石野村宮床 を結ぶ街道に近いここ 鶴巣城 へと移転する方が便宜上よくなったのではないか。




実は、平安時代から鶴巣城のすぐ北に、城と一体化した街があった。*2下草古城 である。 豊かできらびやかな街であったろうそこは、黒川氏の来る以前から栄えていた。 地域の富の象徴である街を眼下に眺める場所に居を移したのは、御所館 の北東に 大衡城 の築城を計画していたことも影響してのことだろう。( 大衡治部大輔 宗氏 は、黒川6代 : 景氏 の次男 )


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鶴巣城・下草古城・宮城・大和

写真の左側中央部に下草古城の街があった。




鶴巣城・下草古城・宮城・大和

下草古城は右側、右端が鶴巣城の山すそ。




黒川 6代・景氏

黒川景氏( くろかわかげうじ ) は、1484年(文明16)の生まれだが、実は血筋は黒川氏ではない。 飯坂清宗( 伊達氏庶流 )の子である。当時、東北南部で急速に勢力を拡大していた 伊達稙宗仙台藩祖・伊達政宗の曽祖父・たねむね )によって、黒川氏第5代当主・黒川氏矩( うじのり )の 養嗣子として1519年(永正16)までには送り込まれていたようだ。 ( 上洛し、景氏の嫡男・稙国 に対して将軍・足利義稙 より偏諱を賜っていることから、この年( 35歳? )までには入嗣していた模様。 ) 




天文の内乱( 大崎氏 )を鎮圧の手腕

この 景氏 は、1536年(天文5)には 大崎氏*3  にて 長期にわたる内乱がはじまると、反乱軍・古川持熈 の拠点・古川城 を 討って滅亡させ、さらに大崎氏の家臣である 高泉氏 や 氏家氏 を降伏させて完全鎮圧している。 内乱発生時、大崎義直伊達稙宗 に事態収拾の援助を随分と前から要請していたのだが、稙宗 は それを放置しており、*4  しばらくのちに 鶴巣城景氏 を派遣。 景氏は派遣当初から、伊達稙宗 の子息・義宣( よしのぶ ) を 大崎氏 に入嗣させる命をも帯びており、要するに 稙宗 の大崎氏攻略の一切を任されるという信頼の厚さで任に当たっていた。




天文の乱( 伊達家 )では無罪放免

1542年(天文11)、伊達家 で 稙宗晴宗 親子の数年間に及ぶ争乱、天文の乱( 別名、洞の乱 - うつろのらん )が起こると、景氏 は無論、稙宗派に就いたが敗北。 同じく稙宗に肩入れした 大崎義宣( 入嗣した稙宗の子 )や 葛西晴清 らは討たれたり当主の座を奪われたりしたのだが、不思議なもので 景氏 だけは実質無罪放免。晴宗 にも好印象を持たれる才覚を持っていたということか。*5




政略結婚で和平追求の景氏

その後大崎氏で、跡目を継げなかった本家・義直 の実子である 大崎義隆家督を継承すると、*6*7 景氏は、大崎氏家臣の 百々氏、高城氏 などに娘を嫁がせ、また 高城氏 や 一迫氏 からは娘をもらうなど、ものすごい数の政略結婚を行って、家の安泰を計った。 そんな 景氏の享年は69歳、1552年(天文21)4月15日のこと。家督は嫡男・稙国 ( たねくに )が相続した。




鶴巣城・宮城・大和




黒川 9代・晴氏

それから時を経て、9代・黒川晴氏 のときにこの城は最も隆盛を迎えていたのではないだろうか。( ちなみに7代 稙国 は 晴氏父、8代 稙家 は 晴氏兄。)




一方伊達家当主は 晴宗 から 輝宗仙台藩祖・伊達政宗の父・てるむね )に移行した頃で、黒川晴氏 は 愛娘・竹乙姫( 鳳仙院 )を 伊達政景留守政景・輝宗弟、晴宗の三男、1567年3月7日・岩切城主 )に嫁がせることに成功していた。また、男児に恵まれなかったため 大崎氏 から養嗣子をもらい、その正室にこれまた 伊達晴宗の弟( 亘理元宗 )の娘を迎えるというトリッキーな婚姻政策を取るなど、祖父・景氏 の手法に倣うようだった。これらによって、近隣の勢力である 留守氏・大崎氏 との結びつきをさらに深めている。 黒川氏としては、かなり平和で豊かな時代だったのではないだろうか。




月舟斎と号した智勇兼備の将

晴氏月舟斎 と号すとともに 智勇兼備の将 として名高かった。黒川家に平和と豊かさをもたらしたのは、自他ともに認める才覚があったからでもあろう。しかし温厚な時期は残念ながら長くは続かなかった。1584年(天正12)に伊達家の家督政宗 が相続すると、政宗 は父・輝宗 の外交方針に反して 上杉景勝 と結び、それによって母の兄・最上義光 と対立する形になってしまった。 最上義光 の義兄は、大崎義隆。黒川氏にとって、大崎氏は養嗣子の実家。家同士の関係が微妙に崩れて神経を使う状態になり始める。




中央の山の頂上付近が鶴巣城跡。毎日広大な水田を眺めていたことだろう。




大崎合戦

そんな折だ、大崎氏家臣で伊達氏との連絡窓口である 氏家吉継( 岩手沢=岩出山城主 )が、政宗 に救済を申し込んできた。原因は、黒川晴氏・祖父の 景氏 時代の、大崎氏のあの内乱のきっかけである 新田頼遠・その一族で 大崎義隆 の側近・新井田刑部。その者を巡って 氏家氏 と 大崎義隆 が対立することになってしまったとのことだった。 1588年(天正16)、政宗は( しぶしぶ??? )内紛鎮圧を決定。( もちろん自らは動かず、)浜田景隆・留守政景( 黒川晴氏 の娘婿 )・泉田重光( 留守傘下・岩沼城主 )・小山田頼定らに鎮圧・出兵を命じた。( それでなんとか落着すると思っていたのだろう。)




伊達の軍勢の出兵を受けて、大崎義隆 は 守将に 南条隆信 を据え 中新田城 を防衛拠点と定めて籠城戦を展開することにした。黒川晴氏 は( 伊達家の庶流でもある家柄として、養嗣子の実家の大崎でなく )娘婿・留守政景 の応援として一応参戦した。 桑折城( 大崎市三本木町桑折蛇沼山 )にて、待機陣営的に高みの見物と思っていたが、主力陣営は誰もが全く思わぬ作戦を実行しはじめて勝手に苦戦へとまっしぐらに進んでゆく。




古川城は、大崎家臣の城

大崎合戦の対戦位置関係地図

なんと、あろうことか 泉田重光*8 率いる先陣が独断、中新田城にそのまま突っ込んでしまった。天気は大雪、知ってるものは絶対にやらないが、知らないが故に( 調査もせずに安易に )やってしまって思わず目を覆ってしまう笑うに笑えないような状態、低湿地帯で身動きが取れなくなってしまったのである。 これには籠城している大崎軍もしめしめ、返り討ちをしてくれようと反撃に出る。逃げようと伊達軍が踵を返せば、桑折城 は何もしてなくても挟み撃ちする格好の位置関係。あらら、大崎方に寝返ったような形になってしまった。*9 潰走して 新沼城 へ戻る伊達軍に大崎軍は追撃、黒川勢はそれに飲み込まれる形で仕方なく新沼城を包囲。その伊達軍の中には娘婿・留守勢が含まれている。




こうした経緯で、晴氏 は無双な伊達軍に初めて「敗戦」を突き付けることになってしまった。まぁ仕方ない、泉田重光らが主将なのだから。という訳で、晴氏 は 伊達軍から敗戦の将である 泉田重光 と 長江 月鑑斎 勝景 のふたりを人質として大崎側に差し出すことで合意、窮地に陥っていた娘婿・政景 を助け出すことにも成功した。




月舟斎 と 月鑑斎

ここで唐突に 長江勝景月鑑斎 )が登場するが、どうしてだろうか。以下はまったくの私論だ。




改めて考えてみると、大崎合戦はあくまで大崎家の内乱、それを鎮めるために派遣された泉田 らが勝手に暴れて情けない結果になってしまっただけ。大崎軍としては、泉田 も 月鑑斎 も敵将とはいえ人質にとるまでもない人物だろう。人質には衣食住が必要、若干でも金がかかるのだからほしいはずがない。なので、もしかするとこれは、留守政景・黒川晴氏 から 政宗 への打診が内々にあっての結果ではないか。泉田 と 月鑑斎 を 大崎氏に蟻ヶ袋城にて預かってもらうということで表向き人質としてまるく収める手打ち。*10




泉田 はもちろん戦略が安易だったこともあるが、上司の立ち位置にある 留守 やほかの武将たちの意見に耳も貸さず進軍するなど、おそらく日頃から周りに良く思われていなかった可能性がある。 長江月鑑斎勝景 は 留守領近隣の領土( 奥州桃生郡南方( 現石巻市の )深谷保郷 *11 )を 鎌倉時代から治める *12 由緒正しき家柄の知将。*13 若くして頭を丸めて坊主( 僧侶 )になっており、年齢を重ねて人として達観もしていただろうが、とにかく政宗のやり方・言動が気に入らない。亀裂は次第に大きくなって表に現れるほどになっていたのも、容易に想像できる。そういう人選。




大崎合戦の戦後処理は 政宗 の母( 最上義光 の妹 )が仲介し、最上氏より派遣された 延沢満延 の説得に応じて、月鑑斎( 当時60歳以上 )は、伊達氏への 離反 を勧められる。これを受諾した 月鑑斎 には、護衛の騎馬兵までつけられて自領へと送られた。つまり、輝宗( 先代・政宗父 )時代に貢献大だった武将への礼ともいうべき対処。泉田もそれ以外の虜将も、囚われの場所で離反した者の異様な旅立ちを不思議がって見ていたようだが、政宗時代の新しい伊達家中の運営を考えた点で、納得がいく。*14




奥州仕置・葛西大崎一揆・下草古城

あの時代のこの地域にとっては運命の 奥州仕置( 1590年 )。*15 その後すぐに起こった 葛西・大崎一揆 にて 黒川家 は、鶴巣城 のすぐ下の迎賓館・下草城 を、会談の場として差し出している。( 厳密には黒川領ではなく既に伊達領になってはいるが。) 1590年10月16日、蜂起した一揆はすぐ大崎領内全土へと拡大した。豊臣家臣の 浅野長吉( 浅野長政 )が大崎の新領主( 木村氏 )の救出を 蒲生氏郷伊達政宗 に命じたため、10月26日に 氏郷政宗 のふたりは 黒川郡 下草城 にて会談したのだ。「 11月16日より共同で一揆鎮圧にあたる 」ことで合意形成が出来た。*16




下草古城近くから、鶴巣城を眺める。




氏郷 毒殺未遂事件を機に、黒川領から消滅

前述したがこの会談中、政宗蒲生氏郷 に毒を盛ったという説は有名。この時期を境に、黒川郡 は完全に 黒川氏 の手を離れ、伊達領として62万石の一翼を担っていく。下草城 以外の鶴巣城大衡城 は廃城となり、吉岡城政宗三男の 伊達宗清 が、宮床 には 仙台2代藩主・伊達忠宗の八男の 伊達宗房 が入った。




🔴蒲生氏郷毒殺





岩手沢( 岩出山 )城の茶会

その後の 黒川月舟斎晴氏 はどうしていただろうか。翌1951年、政宗 が 岩出沢城( 岩出山城 )にて開く宴席に招かれ、欠席していた。( 岩手沢城 はその後 岩出山城 と改名、1601年(慶長6)青葉城を築城するまで12年もの間、本拠とした。)




国替え直前のお披露目のため( という名目で!? )開催する茶会。" 大崎家 " のせいで散々面倒なことに巻き込まれ、先祖代々守ってきた山形・福島の旧伊達領を奪われた。*17  そしてその忌々しい旧大崎領に国替えさせられるということを新領土の傘下・宮城県勢全員に理解させアピールしたかったのだろう。ゆえに参加拒否に政宗は激怒した。*18




茶会・宴会イメージ( 岩出山城・岩手沢城 )伊達政宗

茶会イメージ




伊達家の裏キープレイスになる西田中で隠居

月舟斎 は、政宗の手の者に捕らえられていた。しかし 脚注 : 月鑑斎のケース *17 とは違い、月舟斎晴氏 は 伊達系の血筋や、伊達家忠臣・伊達政景( 留守政景・義理の息子 )の懇願もあり、 許されて 西田中( 仙台市泉区西田中、今の泉ビレジや住吉台辺りの地区 )へ移封( 隠居 )となって余生を送ったそうだ。 時に 政宗根白石祖母の墓所 や 鷹狩に立ち寄った際など、話し相手になったとの逸話もちらほら残ってるとか。 争いや出世などから離れのんびりと草花を愛でて過ごしただろう。ここでもそれなりに幸せに過ごせたろうと感じる。

キープレイスの詳しい所以は、下記 *18 参照。




仙台市泉区根白石の白石城跡

白石城・根白石・黒川氏

そうそう、根白石 は もうひとつの 白石城 があったとして伊達家にひっそりと伝えられ、城主は 白石参河 として秘されてきた模様だ。 『 宮城郡誌 』には 白石参河 について「 黒川安藝守晴氏の弟 」と記されており、この城跡には実は、黒川月舟斎晴氏 の孫にあたる 黒川季氏 の墓 もある。 *19 *20




西田中・黒川氏・隠居所

西田中イメージ




鶴巣城




登場文献


『 水沢大衡氏系図 』、『 報恩寺旧蔵黒川系図 』、『 宮城郡誌 』


解説設備 特になし
整備状況


山林、若干の獣道が草刈りされ倒れる場合があるらしい


発掘調査


不明


参考SITE みちのくトリッパー仙北地区の紹介
参考資料 鳴瀬町史 』、『 矢本町史 』、『 伊達政宗に睨まれた二人の老将 』 他










お題「最近楽しみな事」

お題「面倒だけど、やってみると意外と楽しいこと」

お題「今、チャレンジしていること。」

本記事の移転更新 #城館跡




+++

*1:大亀山に坂上田村麻呂の伝説が残っているが、そんな峠・難所、街道な訳はないので、なにかがきっかけで寄り道訪問してメイクドラマしたのだろう。

*2:郡都とも言われていた。

*3:当主・大崎義直( よしなお )の際。

*4:それにより大崎家中では主人が不在となるなど混乱を増幅していた。

*5:こ奴出来るなと思ったら部下にしておきたいもんね。

*6:要するに話を整理すると、大崎氏"前"当主は 伊達稙宗 の息子で、大崎氏に男子が生まれていなかったということではない、先々代の息子・義隆 がいて相続出来たということ。

*7:大崎家当主に伊達家の血統はなくなるということでもある。これがのちのち、大崎氏末代と 伊達政宗 にも影響を及ぼすのだが。

*8:岩沼城主、岩沼は雪が少ない。

*9:仕方ないよね、負けて逃げ帰ってくる予定にはなっていなかったんだから。桑折城という陣取りが絶妙だったと言うこと。

*10:黒川・志田両郡は、大崎方として加勢した 最上義光 の援軍 5,000人が攻略していた。

*11:奥州長江氏( 陸奥深谷長江氏 )は、旧桃生郡河南町の一部・旧矢本町の一部を奥州合戦で軍功を揚げ将軍より直接拝領した。

*12:わずかな面積とはいえ、将軍家から直接賜った地を収めているという誇りがある。

*13:葛西晴信 ・ 相馬義胤 からみた義兄。

*14:長江氏は、翌年のあの有名な 摺上原の戦い( 1589年 )へ、 伊達軍の援勢として鉄砲隊を送り込んだらしい。怨恨なく離反となった証拠だ。

*15:この地域の武将がほとんどそうせざるを得なかったように 長江月鑑斎勝景 の 長江家 も、小田原征伐 に参戦せず 奥州仕置(1590年)によって没落した。

*16:ところがこの時、下記脚注にて後述する( 偽の書状が出るという )混乱が生した。政宗 は会談どころではなく四苦八苦、一切合切切り捨てて釈明・地位改善に向かいたいがそうもいかない。蒲生氏郷 は この機に乗じて 政宗 に背後をとられないよう神経を尖らせることを余儀なくされた。( 政宗下草城 にて 氏郷毒殺 しようとし、氏郷 が 自ら持参していた解毒剤を飲んで助かったとの説も解かれるほど事態は緊迫した状況だった。) 結局政宗は、氏郷が会津へと帰還するために、一門の重臣である 伊達成実( はとこ )・ 国分盛重( 叔父・輝宗弟 )の両名を人質として差し出さざるを得なくなっている。

*17:摺上原の戦いで勝ち取った蘆名領も没収された。

*18:長江月鑑斎 も招かれていたが、( 当然ながら?! 不気味がって?! )欠席をした。「 " 残れたものども " の嫌味か、と。こっちは子々孫々地位も名誉もゼロになり明日食う米も心配というのに。 」という気持ちもあったかも知れない。政宗 と 月鑑斎 の思いはここでもいつも平行線。

長江月鑑斎勝景 は、政宗の命を受けた秋保氏 一族 の 馬場定重・頼重 父子によって捕らえられ幽閉され、そして殺害されるという最期を迎えた。

月鑑斎 の場合、葛西・大崎一揆( 1590 ~ 91年 )の主犯人物たちとの関連を取り沙汰され、とばっちりを受けたことが要因であったとも思うし、もしかすると、葛西・大崎一揆伊達政宗 の 謀略と豊臣方に告げ口しその証拠とする書状をも偽造した " 主犯格 " も 月鑑斎 であると、政宗は考えたのかも知れない。

*19:永安寺( 泉区福岡字寺下2 )を、仙台2代藩主・忠宗が狩りをした際、眺望絶佳のこの場所を見つけて松島瑞巌寺中興の祖・雲居( うんご )禅師を招き開基させたのは、有事の際に 仙台城裏手 から 郷六根白石宮床富谷大郷松島北上川県北 へと逃れる脱出ルートを整備するためだったとの説も取りざたされる、たぶんその通りだろう。

*20:ちなみに、 根白石 で晩年を過ごした 政宗 の 祖母・裁松院 は、久保姫( 窪姫、笑窪姫 )の名で知られた 岩城重隆 の娘で、当時 奥州一の美女 と言われた。当初は 結城家( 白河 )への輿入れが決まっていたが、政宗の 祖父・伊達晴宗 があまりの美しさに強奪して文字通りの略奪婚となったのは、有名な話だとか。