岩出山城 跡 | 伊達氏(・大崎氏家臣 )の居城
別名 | 臥牛城、岩手沢城、岩出山要害 |
築城・廃城年代 | 1394?~1868年( 明治維新 ) |
主な城主 |
氏家氏、伊達氏 |
近隣河川 | 江合川 |
最寄街道 |
仙台 〜 吉岡 〜 中新田 〜 岩出山 〜 鳴子 〜 山形・最上 岩出山 ~ 古川 ~ 涌谷 ~ 石巻 |
構成 | 本丸・二の丸? |
主な遺構 | 土塁、空堀、堀切、石垣、虎口、曲輪など |
井戸跡 | 不明 |
大崎氏家臣・氏家氏が代々守ってきた山城として室町時代に造られ、永く 岩出山伊達家 によって 明治維新 まで守られて来た。北は断崖・南は深い森林、東に街と田畑が開ける立地である。
江戸時代の発展目覚ましい岩出山町に立地
桃色で付けた線が岩出山中心街。
街はかなり大きく、メインストリートの鍵型は大きく入口と出口に2回と半分ぐらいある。昭和の時代はさほど感じなかったのだが、平成・令和になるとその街場・中心街の大きさ・経済の状況は( 江戸末期あたりでは )仙台の次ぐらいの発展といった感じで、相当賑やかのでは。*1
岩出山と言えば、しみどうふ=凍り豆腐と、酒饅頭が有名だった。
初代城主は大崎氏の家臣
当城の最初の城主*2・氏家氏 は、大崎氏 の源流である 斯波氏( 足利氏傍流 )の家人で、越中・富山が発祥とされている。富山から、美濃・陸奥( 宮城大崎、一部最上 )・下野 の3方向に分かれた。この、陸奥氏家氏 がはじめて文書に著れるのは、留守文書による「 宮城郡余目郷内 」での 氏家房十郎 や、「 玉造封内風土記 」には 氏家弾正( 最上 )の活躍、「 観蹟聞老志 」の " この名、旧名を岩手澤と云う。大崎家臣 氏家弾正 なる者の居館なり " と出現は、通常程度である。
岩出山 に 氏家氏 が初めて入ったのは 1394年( 応永年間・1394〜1427年頃だろう。南北朝を統一した3代将軍・足利義満が次代に将軍職を譲渡した )なので相当古いっちゃ古い。氏家直益 の初代城主説については 1500年代初頭ではないか。改めて城を整備・竣工したといういわば 陸奥氏家氏・中興の祖 的意味と考えた方が良さそうかな。そりゃそうだ、大崎氏 が東北に初めて入ったのは 中新田 で、岩出山はその至近にある。一方、大崎氏 はまもなく 玉造・栗原・志田・遠田 を支配していき、そうして人々の流れも 奥大道 の行程も大きく変化する。当然、橋を通す技術が良くなれば、古川方面( 大崎氏古川・名生城 )という、平地で交通と産業の良い方へ移りたくなってきたくなるものだ。
さてここから、中新田 のサポート・有事に 最上 へ逃れるための基地でもあった 岩出山( 岩手沢城 )は、激動の時代に突入する....。
家頻繁に起こる家中騒動
1534年(天文3)、大崎氏家臣のひとりである 新田( 新井田 )安芸頼遠 が、主君を相手に反乱を起こす。新田は志田郡 泉沢 の 領主で、*3 単独ではなく諸氏を巻き込んで蜂起、氏家氏・古川氏・一迫氏など多くの勢力を味方につけた。 困った 大崎義直( 11代 ) が 伊達稙宗( 仙台藩祖・伊達政宗の曽祖父 ) に援軍を願い入れると、黒川氏 が応援に駆け付け、古川城滅亡・氏家氏と高泉氏を降伏させて 1536年(天文5)にこの内乱を鎮めた。その際、岩手沢城( 岩出山 )は 反乱軍の最後の拠点となり、新田ら3,000人が籠城して長期戦になったとも言われる。数ヵ月に及んだ反乱は、新田が出羽に落ち延びて終幕したらしく、氏家直益は( 三丁目城に? )隠居、温情なのか 岩手沢城 は嫡子の 隆継 に引き継がれた。
伊達家との関係性も深まり始める
幾分時を経て、1542年(天文11)伊達家 で 天文の乱 が起こると、大崎氏 は、宮城北部沿岸地域を治める 葛西氏 とともに稙宗派につき、破れ、伊達家から送り込まれて入嗣した伊達稙宗の子息・大崎義宣( 12代 ) は、当主の座から引きずり降ろされる。家中である 氏家氏 はお咎めなしだがその後、伊達家への連絡窓口となるべく懐柔されていった。
大崎合戦
大崎氏 は、11代・義直 の 実子である 大崎義隆 が13代として家督を継いでいたが、奥州探題 の名誉の光僅かになんとか生き延びているような状態。*4 そんな中またすぐに家中に内乱が生じる。世代は違うが再びの 元凶が 新田( 新井田 )氏 だというのはちょっと有名だ。大崎義隆 の 寵愛を巡る 新田刑部 の 謀略に関して、氏家吉継( 隆継の後継 )が早速、伊達家へ救援を申し出たのである。
城山公園側
フライングのような格好で 氏家吉継 が 新井田 の反乱鎮圧を求めた結果、伊達家は前例もあるのでと家臣の 留守氏・泉田重光( 岩沼城主 )らに出兵を命じた。 大崎義隆 は 新井田の入れ知恵か 中新田城 を拠点として籠城戦を展開することにしており、何をそんな意固地な、勝ち目があると思ってるのか?という状態。いわばチクった 氏家吉継 の本拠・岩出山を背にして伊達軍を迎え撃つ中新田。挟み討ちにならない確証があったのか? もしかして岩出山をあわよくば分捕っちゃおう的な用意すらあったのかという状況のようにも思えて、あるはずのない自信に驚愕する。
🔴大崎合戦
奥州仕置と葛西大崎一揆
まあ結果は、黒川氏が寝返ったような陣形になり、*5 大崎氏を勝たせてしまったような不思議な結末となった。 そしてさらに時は下って 1590年(天正18)、葛西・大崎一揆 が生じ、小田原征伐のあと腐れも重なって、伊達家16代当主となっていた 伊達政宗 が、全てを失って岩出山に入ることになるのであった。
伊達政宗の入城
1589年(天正17)、蘆名氏の会津へ侵攻し 摺上原の戦い に勝利していた 伊達政宗 は、黒川城( 鶴ヶ城・会津若松 )を GETして喜びに浸るのも束の間( 惣無事令違反 )、奥州仕置( 1590年 )により、まもなくその会津を没収され、葛西・大崎一揆の始末、小田原征伐だのなんのかんのと盛り沢山に理由をつけられ返す言葉もなく、本拠の 米沢 も取り上げられて奈落の底の気分がいつしか怒り心頭に達しつつも、抗うことも出来ずに渋々家臣皆引き連れて 岩手沢城( 岩出山 )へ入ることになった。*6 *7
長江月艦斉と黒川月舟斉、因縁の茶会
写真は春先?? まだ桜が咲いてない。
どんな行列がどれほどでやって来たのだろうか…。*8 城の南側を流れる川沿い( 蛭沢川 )の桜並木等は当時もあったのか無かったのか。鳴瀬川の恵み、米沢より広く米もたくさん取れて当時今よりも豊かな街だったかもしれない、家臣たちは景色を見て胸膨らませたろうか。 一方、終始苦虫を噛み潰した表情であったろう政宗は、入城記念の宴席 に 葛西・大崎一揆 で不手際の原因となった近隣を治める武将・長江月艦斎( 勝景 )や 黒川月舟斎( 晴氏 )らを招いていたのだが*9、案の定彼等は顔すら見せず、政宗の怒りにさらなる拍車をかけた。
🔴黒川氏・茶会
葉桜の街道、まもなく岩出山城に着く。当時はこんな並木なんてなかったかな...。
政宗は正月を過ごしたが、すぐに朝鮮出兵へ
この後政宗は、翌年の1592年(文禄元)ここ岩出山で 正月 を迎え、3月には 朝鮮出兵 の一軍として九州へ出発する。1603年(慶長3)に 仙台・青葉城 が竣工するとすぐさま移転( 岩出山城は、四男・宗泰 に譲渡 )、そりゃそうだろう。殆ど不在の12年間、という本拠であった。
【 余談1 】仙台味噌
朝鮮出兵 に関しては、政宗が持参した 仙台味噌 が他藩と違って変質せず味も優れているとして、全国的に有名になったのは皆さんご存知。食通・グルメ の 政宗は、醸造技術を磨かせること、常に城中の糧なるよう「 御塩噌蔵( おえんそぐら )」という大規模味噌工場を設けていたが、仙台城下でのことのためそのエピソードは誤りとされるが、岩出山にも前進ともなる小規模のものがあったのだと思う。
【 余談2 】蒲生氏郷への因縁
葛西・大崎一揆 の鎮圧に際しては、下草古城 事件 に詳しいが、蒲生氏郷 は 政宗 が 蘆名氏 を倒して一度は手に入れた 黒川城( 会津鶴ヶ城 )を貰った武将、政宗は尚更地団駄を踏む思いだったに違いない。
写真は、会津若松の鶴ヶ城。蘆名氏を滅ぼして入城するはずだった。
岩出山伊達家
伊達宗泰*10 を 初代 とする 岩出山伊達家 は、14,600石でこの地を 明治維新まで 治めた。 岩出山城は、室町 〜 明治まで城の縄張りは何十回も改められたに違いない、現在の城山公園には様々な遺構表示が残るが、どの遺構がどの時代に使われていたものかは定かではない。城山公園自体も、岩出山高校・小学校用地に大規模に使われているのは、明治維新・廃藩置県時の風潮が色濃く現れたため、どこもそうだ。 岩出山伊達家は明治維新後、他藩と同様に 北海道移民 の道を選び、家中は第3陣に分けて北の大地へ渡って行った模様。
城下を流れる 内川。白石城下も彷彿とするような佇まいだ。この川は政宗によって引かれたらしく、藩校跡である 旧有備館 の池に満々と水を供給している他、堀の役目もさせていたような配置となっている。( 源流が人工池のような地図表示になっているが、それにしては水量が豊富な気がして謎?!ではある )水の街のイメージは、河原に立つ 造り酒屋 もそれを引き立たせている。( 森民酒造店 )
旧有備館 は 隠居の居所
旧有備館 は、国指定の史跡 に指定されている 岩出山伊達家 の 学問所跡 というが、昔からいつ来ても懐かしい先祖代々引き継がれた祖父祖母の " 家のような佇まい " があって、住んでみたいとの憧れを持っていた。 今回年表をマジマジと見てやはりと合点がいった。岩出山伊達家2代( 宗泰後継の 宗敏 )の 隠居する 居所 として設けられたのが最初(1677年・延宝3)という。
岩出山城北壁の断崖を、正面の借景 としているらしい、池と木々とが絶妙なバランスで折り重なり、南西に川から導入されている池の水のせせらぎがなんとも心を和ませる素晴らしい造りだ。( 庭の造園は1715年・正徳5 ) これを現代まで守り伝え、2011年3月11日の東日本大震災の物凄い揺れで倒壊してなお復元させた旧岩出山町・現大崎市に敬意を表したい。( 岩出山伊達家から市に寄贈されたのは、1970年・昭和45 と最近っちゃ最近、 国史跡名勝指定は 1933年・昭和8 ) また、仙台・青葉城から移って来たという伊達政宗像( 小野田セメント贈・1962年・昭和37 )には、これからもしっかりとこの地・街と田畑まるごとを見守って欲しいものである。
登場文献 |
『 留守文書 』、『 玉造封内風土記 』など |
解説設備 | 遺構表示所々有り |
整備状況 |
公園、学校敷地など |
発掘調査 | 不明 |
本記事の移転更新 #城館跡